ポスト資本主義社会と、著作権(4)
前回は、仮想空間においては、リアルな世界におけるよりも、著作物を生み出す著作者の立場が極めて大きくなっているという話をしました。
仮想世界の方が著作権が前面に出てきて、仮想空間の中で小説、音楽、仮想商品を創作する著作者の権限が、リアル世界よりもクローズアップされる、その入り口に我々は立っている。それを我々は直視して、新しい著作権管理システムを構築していく必要がある、という話でした。
これまでの歴史を振り返ると、中世では、王や貴族が芸術家を抱えて、その芸術家が絵画や彫刻を創り出していました。宗教の経典本の作成と流通は、教会や寺院が中心となって行っていました。モーツァルトも、宮廷に仕える作曲家であり、貴族たちのサロンで演奏をしていました。このように、中世においては、芸術家の創作物は、権力者たちによってコントロールされていました。
そして、20世紀では、出版、レコード、放送のシステムが普及し、出版社が商品としての書籍を出版・販売し、レコード製作者が商品としてのレコードを製造・販売し、放送会社が楽曲や演劇・映画などを放送するようになりました。その放送では、商品を製造販売する企業がスポンサーになっています。このように、20世紀に確立されたモデルでは、資本家が芸術作品を商品として製造・販売し、創作者は、その資本家に従属するかたちで、創作を行っています。
現在はどうでしょうか。
インターネットやSNSが隆盛を極める今日、クリエイターは、資本家の手を借りることなく、自らのクリエイティビティを発揮させて、読み手や視聴者にダイレクトに小説、音楽、映像などを届けるようになりました。ネット小説家が口コミによって一躍有名になったり、無名の作曲家がYouTubeでミリオン再生回数を果たしたり、新人の映像作家がTikTok配信で収益を獲得したり・・・
ただし、これらは、特定の小説投稿サイト、YouTube、TikTokなどのプラットホームの上で成り立っており、その意味で、まだ半分、資本家に従属しているといえます。
なぜ半分従属したままなのでしょうか。20世紀モデルを超えることはできないのでしょうか。
この問題の本質を考えるに当たって、そもそも「創作」とは何であるか、我々が創作を行う意味、意義は何であるかを問うことが重要です。
その上で、創作物(著作物)を保護して利用する著作権について、著作権という権利の目的、役割について、深く知ることが必要になります。
現状の一例として、学校教育において、特に小学校・中学校の教育において、「創作」はどのように取り扱われているかを見てみましょう。
「図画工作」「美術」「音楽」の授業において、手を動かすことはあっても、「創作」とは何であるか、創作の楽しさ、面白さについて、他人の創作とは異なるオリジナルな創作活動をすることの意味、意義について、そして、自分の創作物(著作物)を保護して利用する著作権の目的、役割について、果たして学校で教えられていたでしょうか。私はそれを学んだ記憶がありません。
国語の授業における作文、美術の授業における作画、音楽の授業における作曲を通じて、下手でもよいので、自ら作文、作画、作曲することの意味、意義を教える。そして、作文されたもの、作画されたもの、作曲されたものが自分の著作物であり、許可なしには他人がそれを利用することができないことを教える。これこそが重要であり、今の時代に必要なことです。
学校教育における創作の取り扱いについて、もう一つ重要な視点があります。それは、授業で生徒が作った文章、絵画、音楽そのものが著作物であり、著作権によって保護される、という視点です。
以前のブログで、5歳の幼児も著作者であることを述べました。例えば、モーツァルトは5歳の時に作曲をしています。

モーツァルトは別格だと言う意見もあるでしょう。しかし、最近ではタブレット上の作曲ソフト(楽譜・楽器なし)によって、小学生・中学生でも作曲は容易にできます。仮に、作曲が傑作でなくても音楽の著作物になり、その著作物は作曲をした生徒の許可がなければ利用できません。
問題は、学校側が、生徒が著作者であること、及び生徒が生み出した著作物は教師といえども勝手に利用することはできないことを認識していない、ということです。これは大問題です・・・
生徒Aが創作した俳句は、もしかしたら傑作かもしれません。傑作ではないにしても、それは生徒Aの著作物です。この著作物の取り扱いについて、学校として決めなければいけません。授業の中で生まれた習作だとしてファイルの中に埋もれたら、生徒の著作物は永久に葬られます。なぜならば、生徒自身も著作権について知らされていないので、自分の著作権の管理に思いが至らないからです。
・・・そうなんです。学校教育も、創作物(著作物)、著作権を基軸にして、再構築しなければいけないのです。
文章、絵画、音楽以外に、理科などの科学教育における「発明」についても同様です。生徒が発明をすることがあるのです。発明は特許になり得ます。したがって、生徒が生み出した著作物や発明などの知的財産、知的財産についての知的財産権の取り扱いを総合的に考えていく必要があります。
21世紀モデルでは、学校は、知識を獲得する場ではなく、生徒自ら知的財産を生み出し、知的財産権を管理していく場になるべきです。
どうして学校教育の場において、生徒が生み出す著作物や発明が軽視されているのでしょうか。
その理由は、ハッキリ言えば、20世紀モデルの学校が型通りの労働者を育成する場であって、その労働者には従順な知識獲得能力が主に求められており、授業の中での創作も枠にはまった内容が想定されているので、オリジナリティーは何ら求められていなかったからです。型通りの労働者は、資本家にとって好都合だからです。
似てますね・・・ 資本家が芸術作品を商品として製造・販売し、創作者はその資本家に従属するという20世紀モデルに。
今後は違います。生徒のオリジナリティーを伸ばす教育が求められます。問題を解く能力ではなく、問題を発見する能力を身につける。
そして、その問題発見のアプローチとして、オリジナルな「創作」を行うことと、その創作を著作権によって保護・利用することを自分で考えていく。その実践的能力を身につけさせる。
これが21世紀の学校教育の場で求められることなのです。
このような20世紀モデルからの脱却は、学校教育の場に限らず、この資本主義社会全体の課題として考えるべき問題です。
次回もまた、この問題について考えていきましょう。